秋葉三尺坊大権現内陣
秋葉殿御堂
七ツ滝岩平の墓
江戸時代、盛岡城下は武家屋敷、町家、農家をはじめ寺院、社殿に至るまで、
長松寺九世中興松峰玄鶴大和尚は、この惨劇を知るも、「北上川の川床は低く防火用にならず、水路も難渋の所多し。」と嘆いていた。
そこでこの上は、神仏に守護を頼むしかないと一大決心して、当寺の檀頭佐藤半六(徳清家三代)、その他世話人と相談する。
そして、寺内に火防鎮守として名高い「秋葉三尺坊」の御堂を建て、はるか遠州(静岡県袋井市久能町)におもむき「秋葉三尺坊大権現」の分体を勧請した。
さらに、信心の人々が講中を結び、火災消除の願いをかけ、縁日、祭事怠りなく、現在まで休むことなく続いている。
その後、嘉永6年(1853)3月3日、十四世
「もし、当寺に延焼いたさば仙北組町全焼まぬがれぬ所」と、ただ無事を祈るばかりであった。
その時、本堂の棟上に奇人現れ、
はて、と見えしが火はたちまち消えてわずかに十余軒の類焼に留まった。
折からの増水で、城下の火消組は、北上川の対岸で眺めるのみだったという。
後にその人を尋ねるに、誰とも知れず。皆の一致する所「秋葉大権現の化身なるべし」となる。
これにより翌年、京都
これらの出来事に前後して、藩では瓦葺屋根を推奨し、さらに文化10年(1813)には城下二十三町のうち、三町に一組ずつの「火消組」が誕生した。
仙北町消防組織「は組」は、天明8年(1788)に創立した。
七ツ滝(荒川)岩平(1767~1836)は、仙北の
人並み外れた体躯を持ち、岩手山中腹の七滝で修行し江戸相撲に入門した。
それ以来、25歳から70歳までの45年間、「は組」の組頭として、家業の種屋の繁栄と共に「南部火消し」の発展に力を尽くした。
今、七ツ滝岩平は、長松寺の墓所に眠っている。