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長松寺とゆかりの偉人・名跡

原敬と長松寺

原敬(第19代内閣総理大臣)

原敬(1856~1921)は、盛岡市(現在の本宮辺り)で生まれた。10歳から13歳にかけて長松寺付近にあった寺子屋の寺田直助塾に通い、習字と漢字を学んでいた。
寺田氏は、南部藩の祐筆(文書製作)を務めている熱烈な南部藩士であった。「樽こ先生」とよばれるほどの酒豪で、戊辰戦争の秋田参戦の折には、大刀を手挟み酒徳利を携える血気盛んな人物だった。幼かった原敬は、薩長軍に敗れた南部藩の意地をこの時身につけたものであろう。寺田氏は、大正5年に北海道で没する。

時は至って、明治35年(1902)政友会幹事長であった原は、初めての衆議院に盛岡から立候補する。相手は当時の盛岡市長「清岡等(きよおかひとし)」であった。25年ぶりの故郷への帰還であったが、中央の名声いざ知らず、温かく迎えたのは仙北町の寺田塾の面々だった。彼らは「健次郎(敬の幼名)さんは、おしょしがりやで、めごいワラシだったナハン」と原を慕い、生涯彼を支えたと言われる。(「幼児寺田直助方にて共に手習せし者あり、懐旧の情禁ずるに能わず」と原の日記に書かれている。)

彼らからの陳情は、唯一仙北町駅の建設(大正3年開業)だった。大正7年、長松寺で寺田先生顕彰碑が除幕される際には、原から、寺子屋老人会宛に所用のため欠席する旨の書簡が送られて来たこともあった。また、現在の盛岡市立仙北小学校は、明治6年(1873)長松寺を利用して創立された。

石川啄木と長松寺

歌人石川啄木

石川啄木(1886~1912)の母工藤カツは、仙北組町で弘化4年(1847)に生まれた。啄木は、明治19年2月21日、岩手郡日戸村(現在の盛岡市玉山区日戸)で生まれた。父親の一禎が、曹洞宗常光寺の住職であったため、戸籍は当時の習慣で母親の旧姓工藤のままで尋常小学2年生まで渋民にて育った。母カツの兄は、盛岡市龍谷寺の住職葛原対月(かつはらたいげつ)であり、その弟子が一禎である。明治28年、盛岡市立高等小学校に入学した後、母方の伯父工藤常象(くどうつねかた)のもとで8か月間過ごす。工藤家の菩提寺は長松寺である。

(略、母は)今度喀血(かっけつ)する前に自分がまだ小さくて父といっしょに何処かへ遊びにゆくところを夢に見たそうだ。母はもう何十年とも知れない前から、自分の父の夢を見ると屹度(きっと)何か悪い事が起きるという事を信じていた。そうして昨日は妻に「北はどっちだ」ときいていた、今日はまた、矢張り自分がまだ小さくて、盛岡の仙北町の長松寺の庭でお菓子や米のどっさり落ちていたのを拾って食っている夢をみた話をした(略)。【1912年1月28日(日)啄木(26歳)日記より】

当時の啄木は「おでこであったが、糸切歯が見え、笑うと右の頬にえくぼができる可愛い少年で作文がずば抜けて上手だった」という同級生伊藤圭一郎氏の記述が残っている。

十六羅漢と長松寺

羅漢公園の石像

長松寺の墓地には、柔和な顔をした阿弥陀如来の大石仏が宗龍寺の方を向いて坐している。こちらは、十六羅漢建立という一大偉業の最初の一体として作られたものである。いつの頃からか、硬貨を投げ、うまく台座に乗るとその人の願いが叶うという説や、指一本で台座の一か所を押して、ぐらぐら動くと願いが叶うという説が流れ、今でも老若男女に親しまれている。

徳川幕府の藩政時代250年の間、南部領では76回の凶作が発生している。米作高、四分の三減の収穫を大凶作、又は飢饉(ききん)という。南部藩では、元禄・宝暦・天明・天保の四大飢饉に見舞われ、その度に城下の寺の門前には施粥(せがゆ)小屋を設けたが、それぞれ数万人の餓死者、人肉を食う者、病死者、身売りが発生している。城下1万3千人、南部藩領20万人の頃である。城下には、郡を越えて人々が殺到し、様々な施策がとられたが、南部藩は徐々に衰退していく。

長松寺の本寺祇陀寺(ぎだじ)の十四世、名僧といわれた廓巖天然(かくがんてんねん)大和尚は、その多くの餓死者を供養するために、五智如来(ごちにょらい)と十六羅漢、計二十一体の石仏建立を発願した。

天保4年(1833)6月10日、天然和尚は、隠居寺であった宗龍寺(伽藍は消失し現存していないが、十六羅漢公園の辺りにあったといわれる)で、あすをも知れぬ病床の枕元に、孫弟子の長松寺十三世徳巖泰恩(とくがんたいおん)大和尚を呼び、長年自分の衣食を節約し托鉢して貯めた500貫文(約73両余り、1両=6貫800文、5石とする)を差し出し「河北報恩寺には仏蹟五百羅漢がある。自分は河南に五智如来と十六羅漢を建てて報恩せん、とその資金を蓄財してきたが、因縁至らず死期が迫った」と初志の達成を委ねて遷化された。

師の臨終の遺言を、深く心に銘じた泰恩和尚は、先師の計画が丈余の石仏二十一体という非常に大きな発願であったことに驚いた。しかし「志して成せぬはなし」と決然、長松寺住職を辞めて建立資金募集の托鉢の旅に出た。

行脚(あんぎゃ)足かけ5年。「三日月の丸くなるまで南部領」とうたわれた、山また山の藩内、藩境を越えて、南は伊達領の岩谷堂から北は八戸藩内田名部(たなべ)まで、5万8053人の喜捨を集め、天保8年(1837)10月、中村武七ら9名の石工を雇い、大石像建立に着手した。

しかし、喜捨のみでは資金が不足し、やむなく長松寺の田畑も借財として提供し(80年後十八世代の時に完済する)、嘉永2年(1849)6月に完成した。13年にわたる大事業を果たした泰恩和尚は、大願成就の翌年7月に遷化されたという。尊像の安山岩、台座の花崗岩は、盛岡市郊外の飯岡山から切り出し、長松寺敷地内で荒刻みを行った。その後、仙北町若者衆が、北上川を舟に乗せ横断し、川原町、鉈屋町を通って宗龍寺に運ばれた。

新山舟橋往来と長松寺

明治橋を下流より眺める

現在の明治橋付近は、江戸は寛永の末(1644)頃より北上川の水運が開け、江戸廻米が行われるようになった。仙北町の御蔵(おくら)から、黒沢尻(現在の北上市)までは100俵を積む小繰舟(おぐりぶね)で、さらに石巻まではヒラタ舟一艘350俵積みが64隻も通った。

江戸時代後期の旅行家、博物学者であった菅江真澄は、天明7年(1788)「岩手の山」で次のように記している。「盛岡につくと、北上川の舟橋をかけかえているところであったが。20あまりの小舟をならべ、岸辺によせてクサリでつなぎ、ツナを岸から対岸に引きわたし、馬のふむ板をならべ終わると、続々と人がわたって行く」。

また、文化7~文政8年(1810~1825)と嘉永3~安政3年(1850~1856)の二回、盛岡城下の八幡町と京町(現在の本町)の無許可の遊郭を一掃し、長松寺から1キロ南の津志田津軽町に、五丁にわたる遊郭(ゆうかく)街がつくられた。これは、城下の武士、町人の風紀(ふうき)を正す目的で行われたが、城下の下町はさびれ、反対に津志田津軽町は大いに栄えた。この街から常磐津、俳人、絵師そして駒形神社近くの七間丁の神楽、漫才師達が長松寺門前を往来していた。

その頃、青年思想家吉田松陰が、当地を通りがかったのであろうか歌を一首残し、南部藩の良田を潰し妓楼をつくることを嘆いている。

「 津志田津軽町鳴いて通る烏(からす) 銭も持たのにかうかうと 」

嘉永5年(1852)「東北遊日記」

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